在京白堊会関連サイトへの「掲示板投稿のお知らせ」ポータルです。
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年次別掲示板投稿状況
在京疾風会の掲示板への最新投稿
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ご無沙汰しました。つい忘れてしまいますね。東京も一気に秋の陽気になり、涼しすぎるほどになってきましたが、皆さん、お変わりありませんか。私は元気で、淡々と暮らしております。一時、手の指が朝起きた時にこわばる感じがして、リウマチではないかと疑い医者に診てもらいました。検査の結果、リウマチの兆候はないということで放ってあります。そうこうしているうちにこわばりは気にならないほどに弱まりました。なんだったのでしょうか。昔から人間ドックの結果にリウマチの症状に注意するようにと言われていましたので、その心配が先に立って症状が出たのかなとも思います。病は気からということですね。とはいえ、これからも注意は怠らないようにしようと思いますが。
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東京も一気に気温が下がり、朝晩は秋の陽気に(少し)なりました。あんなにやかましかった蝉の声もぱたっと聞こえなくなり、気がつけば虫の声がじわっと地に満ちています。皆さま、お元気ですか。私はこのところ朝の寝覚めが悪く、眠気を抱えたまま起き出すことが続いています。春眠暁を覚えずならぬ、秋眠暁を覚えずの境地です。朝の気温が下がって、それまで抑えていた夏バテがどっとばかりに吹き出してきたのかと思っています。 日も短くなりました。夕方6時というともう薄暗くなっています。日課の散歩の時間を夕方から昼過ぎに移しました。夏パターンから冬パターンへ、衣替えならぬ生活パターン替えです。季節は回るということを改めて実感しています。
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8月のいつからだったか、このホームページにアクセスできなくなり、ご無沙汰しておりました。お久しぶりです。 泰久さんの熱血連載が始まっていたとは知らずにおりました。よく調べて書いていらっしゃる。大変なご努力とお見受けします。私自身は野球にさほど関心はないので、拝読して昔の雰囲気を味わうくらいが関の山ですが、好きな方にはたまらないのではないでしょうか。泰久さん、ぜひ続けてください。 今日は東京でも暑さが一段落し、秋の気配を感じさせていますが、予報によるとこれは一時のこと、まだまだ暑い日が続くのだそうで、いい加減にしてくれよと言いたくなります。これだけ暑い夏になると、年寄りにはそれを生き抜くだけでも大仕事といっていいことになり、秋の気配を感じながら「今年も生き抜いたか・・・」と感慨に耽ることも冗談ではないような具合になってきました。この先どうなっていくのでしょうか。
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(4)盛岡一高S31チームの発進、好敵手・盛岡商業 盛岡一高野球部を語るには、好敵手・盛岡商業高校(以下盛岡商業と呼ぶ)野球部を語らなければならない。 「盛岡一高vs盛岡商業」は「杜の都の早慶戦」と呼ばれ、幾多の熱戦を繰り広げてきた、昔も今も、「好敵手」 というよりは「宿敵」と呼んだ方がよい存在だ。7月〜8月の「夏の甲子園」が終わると3年生部員は引退し、 あいだをおかず、2年生部員と1年生部員とで新チームが編成される。そして「秋季大会(新人戦)」が始まり、 翌年の「春季大会」、そして「夏の甲子園大会」を戦うことになる。 したがってS31年の夏を戦うチームは、S30年の「秋季大会」が最初の公式試合となる。クジ運とはおそろしい もので、秋、春、夏とすべて、盛岡一高はこの好敵手・宿敵・盛岡商業と緒戦でぶつかることになる。「S30・ 秋季大会」は盛岡一高3-11盛岡商業で大敗、「S31・春季大会」は盛岡一高0-1盛岡商業で惜敗、そして、 「夏の甲子園・岩手県大会」の盛岡一高vs盛岡商業は昭和31年7月22日に行われた。盛岡市を二分する戦い であり、一高ファン、盛商ファン、がつめかけ「盛岡市営球場」は2万3千人の大観衆で埋まった。下馬評は秋 ・春に勝っている盛岡商業やや有利であった。 昭和31年「夏の甲子園」岩手県大会は39校で戦われた(添付トーナメント画像参照)。まず「実力打診」として、 盛岡一高を「岩手日報7月14日号朝刊」は次のように評している。『切れ目のない打線、"打撃の盛中"として 伝統を誇るこのナインはその名に恥じず打力のチームとしてグンと実力を増した。』『ムラのない打線はほとん ど毎試合十本以上の安打を放ちA級の先端を行く存在。』『エース女鹿は体には恵まれないが、左腕からくり 出す速球とシュートは最近とみに威力を加え、落ちついたピッチングはその制球力とともにかなりのもの。』 『緒戦で盛岡商高と対戦することになったが、復調した岩崎(一)投手をどのように攻略するか、、、。この名門 が甲子園にカム・バックする一つの試練として興味ある一戦であろう』 そして直前予想として「岩手日報7月20日号朝刊」でトーナメントのブロック別の予想をしている。盛岡一高は Aブロックに入った。『Aブロック 地元盛岡勢のAクラス盛岡一、盛岡商、盛岡工の三チームと古豪遠野高が 顔を並べたAブロックが最激戦のグループとなった。』『しかししいて予想をすれば、盛岡一-盛岡商は紙一重 の差ながら技能的に盛商がすぐれ、地道に攻めたてれば、盛商に歩がある。』『結局サウスポーにあまりなれ ていない盛商打線が女鹿をいかに打崩すか、こうしたところに勝敗のカギがかけられている。いずれにせよ この勝者が優勝街道をばく進することは間違いない。』 すなわち緒戦である盛岡一高vs盛岡商業の一戦は、「事実上の優勝決定戦」と評され、そして勝敗のカギは 盛岡一高・ピッチャー女鹿の左腕にあると評されたのだった。(つづく) 参考資料・引用資料 (引用部は『』で示した) : 1)「白堊熱球譜・盛岡一高野球部創設百周年記念誌」(盛岡一高野球部創設百周年記念誌編集委員会編、 平成11年(1999年)発行) 2)「岩手日報」昭和31年(1956年)7月14日、20日、23日、各号朝刊
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(3)「S31・S32 白堊熱球物語」・前史 いま、真っ最中の「全国高等学校野球選手権大会」(以下「夏の甲子園」と呼ぶ)は、第107回を数える。 前身は「全国中等学校優勝野球大会」で、第1回大会は大正4年(1915年)に大阪の「豊中球場」で開催 されている。大正6年(1917年)の第3回大会から球場は、兵庫県の「鳴尾球場」になり(現・西宮市)、大正 12年(1923年)の第9回大会まで開催された。今の「甲子園球場」(兵庫県西宮市)に移るのは大正13年 (1924年)の第10回大会からである。 この大正4年(1915年)に初めての全国大会が開催される以前は、各中学校(旧制)がクラブを結成して 対抗戦を行っていた。わが白堊校=盛岡中学も明治32年(1889年)に野球部を結成し、おとなりの宮城県 の仙台一中(現・仙台一高)との対抗試合をかわきりに、県内の一関中学(現・一関一高)や遠野中学 (現・遠野高校)、あるいは秋田県の大館中学(現・大館鳳鳴高校)、宮城県の仙台二中(現・仙台二高)、 あるいは年長である早稲田大学第二軍や旧制第二高等学校とも対戦している。明治44年(1911年)には 「第一回東北六県中学連合野球大会」が行われ「野球熱」が高まっていった。 盛岡中学野球部は抜群の強さを誇り、20勝3敗1無効試合で、東海の愛知一中(現・旭丘高)と関東の 水戸中(現・水戸一高)とともに「全国中学球界の三傑」と呼ばれたという。さらに歴史をさかのぼると、 いったい「野球」=「ベースボール」がいつから始まったのか、これは資料が少なく、推測の域を出ないよう だ。が、盛岡中学の「日誌」に、明治19年(1864年)の運動会の競技の中に「ベースボール」の文字があり、 岩手県の野球の始まりと見てよいと言われている。 盛岡中学の全国大会への出場は、 ・大正6年(1917年)第3回大会に初の出場、ベスト4。 ・大正8年(1919年)第5会大会に2度目の出場、ベスト4。 ・大正10年(1921年)第7回大会に3度目の出場、ベスト8。 ・大正15年(1926年)第12回大会に4度目の出場、初めて甲子園の土を踏む。 ・昭和8年(1933年)第19回大会に5度目の出場。 戦後の新制高校として短い期間、盛岡高と称していた時期があり、 ・昭和24年(1949年)第31回大会に盛岡高として6度目の出場。 ・昭和25年(1950年)第32回大会に盛岡高として7度目の出場。 したがって、盛岡一高のS31(昭和31年)のチームは6年ぶり8度目の「夏の甲子園」を目指していたことに なる。(つづく) 参考資料 : 1)「白堊熱球譜・盛岡一高野球部創設百周年記念誌」(盛岡一高野球部創設百周年記念誌編集 委員会編、平成11年(1999年)発行) 2)「盛岡一高野球百年」(弓村胡鰐著、平成3年(1991年)発行)
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(2)盛岡市営球場・盛鉄球場 その当時、高校野球岩手県大会は、「盛岡市営球場」と「盛鉄(盛岡鉄道管理局)球場」の2球場で行われていた。 メインの「盛岡市営球場」は盛岡市郊外の、正確には現在の「東新庄」にあったが、盛岡の方には「山王」の近く、 と言った方がピンとくるかも知れない。サブの「盛鉄球場」は盛岡駅の近くの木伏(きっぷし)にあった。盛岡市の 球場に出場することは、全県下の球児の憧れだった。当時はバスを使うチームはほぼ無く、盛岡市以外のチーム の多くは旅館に宿泊し、盛岡市内のチームは各自が自転車で球場に向かっていた。 当時の夏の甲子園・岩手県大会は参加チームは約40チームだった。岩手県は広い(約1.53万km^2)、ほぼ四国4県 に匹敵する。主な都市は、沿岸部では北から、久慈市、宮古市、釜石市、大船渡市、陸前高田市、内陸部では北から、 二戸郡福岡町(現二戸市)、盛岡市、花巻市、遠野市、北上市、水沢市(現奥州市)、一関市、だった。盛岡市は岩手県 のほぼ中央に位置している。各都市の実状に応じて、普通高校、農業高校、商業高校、工業高校、水産高校、などが あり、高校野球の覇を競っていた。私立は現在のように多くはなく、盛岡市に2校あるだけだった。 もう一度、野球場の話に戻ると、「盛岡市営球場」は盛岡市郊外(私の小学校の学区外)にあるので、小学校1年や2年 では一人で球場に行くことは、親が許さなかった。小学校3年くらいになると許され、事実、私も一人で「盛岡市営球場」 に行ったのは小学校3年からと記憶している。「菜園」にある我が家から「盛岡市営球場」までは直線距離で2.5kmほど 有り、実際に歩く距離は3kmを超えていたと思われる(添付した地図を参照のこと)。「盛鉄球場」についてはネットで捜し てもほとんど情報がなかったが、唯一ブログ「イワテライフ日記」↓に情報が載っていた。 https://iwatelife.blog.fc2.com/blog-entry-1215.html 知る人ぞ知る、散歩HP・ブログの老舗である「イワテライフ日記」の主宰者「まると」さんは、「盛岡市営球場」に行く道の 坂や階段について投稿してしているのだが、5つのコメントが付き、その中で「盛岡市営球場」や「盛鉄球場」や「ジャイア ント馬場」が話題になっていて、さすが「イワテライフ日記」という感がする。私も「ジャイアント馬場」が登場したのは「盛岡 市営球場」と記憶している。 現在は「いわて盛岡ボールパーク(愛称 : きたぎんボールパーク)」がメイン球場になっているが、ちょっと歴史をたどって みよう。「盛岡市営球場」が建てられたのは昭和13年(1938年)、「岩手県営野球場」にメイン球場が受けつがれるのが昭和 45年(1970年)4月30日、「岩手県営野球場」が廃止されるのは令和5年(2023年)3月31日だ。それを令和5年(2023年)4月1日 に開場した「いわて盛岡ボールパーク(愛称 : きたぎんボールパーク)」が受け継ぎ現在に至っている。私が物心ついてから は、球児の聖地は3たび変わっていったことになる。「盛岡市営球場」の閉場は令和6年(2024年)3月31日で、つい最近まで 練習などに使われていたと思われる。(つづく)
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「こちら」をクリックすると「Forbidden」=「禁じられた」が出てきます。至急、復旧したいと思いますので しばらくお待ちください。 なお、「電子掲示板」は通常通り使えますので、どんどん書き込んでください。
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「S43白堊熱球物語」と「S50白堊熱球物語」は、だいぶ前に脱稿してネットに投稿しています。では、 「S31・S32 白堊熱球物語」の始まりです。 (1)「ダウンタウンヒーローズ」 皆さんは「ダウンタウンヒーローズ」という小説・映画をご存知だろうか? 同名のタイトルで早坂暁が小説 を著し(直木賞候補作)、同名のタイトルで映画化されている。映画の主役は三代目・中村橋之介、薬師丸 ひろ子。舞台は松山市の旧制松山高等学校、この「松高」のバンカラで純情な生徒たちが巻き起こす「事件」 が心を打つ物語となっている。 昭和30年代初期、「ダウンタウンヒーローズ」は盛岡にもいた、確かにいた。その時代の「ヒーロー」はプロ 野球では巨人の「川上哲治」、東京六大学では立教大学の「長嶋茂雄」、大相撲では「栃錦・若ノ花」、プロ レスでは「力道山」「ルー・テーズ」などだった。だが、テレビが無い時代、田舎の少年にとってはみな遠い 存在だった。少年向け映画に力を入れていた東映の、2本だて映画のあいだに放映されるニュースで、彼ら 「ヒーロー」をかいま見るだけだった。 しかし、我が家のとなりに「ヒーロー」がいたのだ。昭和31年・32年と連続で、夏の甲子園岩手県大会で 優勝した、盛岡一高野球部の小原徳政一塁手だ。その時代、盛岡一高野球部は県下に敵無し、ピッチャー 女鹿恵教、キャッチャー大窪明、ファースト小原徳政、、、。その小原徳政一塁手がとなりにいるのだから、 近所の悪ガキはみな追っかけをやった。私は小学校2年・3年のころで、「ゴロ野球」を卒業し、普通の野球 に移るころだった。 小原一塁手を訪ねて野球部の仲間が集まることがよくあった。6〜7人が自転車に乗ってやって来てたが、 みな破れ帽子に足駄(高下駄)、腰に手拭いのバンカラスタイルだった。みな長身で体格が良かった。なかでも 一番長身の男がいた。悪ガキたちは電柱のかげにかくれて、「あれは大窪だぞ !」と話していた。キャッチャー 大窪は長身で、ホームベースの上に仁王立ちしてナインを締めると、守りの要、まさに守護神に見え、ずいぶん 人気があったのだ。 彼らこそ、我れらが「ダウンタウンヒーローズ」だった。(つづく)
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神奈川大会は準々決勝から中3日をおいて、土日に準決勝2試合、決勝1試合という変則的な 開催で、神奈川高野連のお客さんサ−ビスなのか、お金儲け目的なのか、意図はかりかねま すが、とにかく横浜スタジアムに行ってきました。ずいぶん混んでました。 試合は1試合目が「立花学園vs横浜」で、前半、立花学園が押せ押せで3点リード、横浜は4番で エースナンバーの選手がセンターオーバーの2本のホームランで横浜が3−4で逆転勝ちしました。 スケールのデカい試合を見て、贔屓チームは無いのですが、いい試合を見せてもらいました、と いう感想でした。 1試合でコンガリと焼けて、2試合目「向上vs東海大相模」は家に帰ってネットで「バーチャル」で 観戦しました。Tシャツと短パンで行ったのは失敗、あまり焼けないように、長袖、長ズボン、が いいですね。明日は「横浜vs東海大相模」の決勝戦になり、接戦続きだけれども、下馬評通りと いうことになりました。明日は「バーチャル」観戦です。
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