年次別掲示板投稿状況

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題名投稿者 氏名日付
■ 『今日の岩手山(11/4)」(久子さん) アップロード 管理人 New!2025年11月06日 (木) 15時10分
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■ 岩手山・初冠雪の写真感謝です 佐藤勇夫 2025年10月26日 (日) 12時48分
■ 「絵手紙・神無月」(きぬ子さん)・「今日の岩手山(初冠雪)」(久子さん) アップ 管理人 2025年10月23日 (木) 01時48分
■ 神無月の絵手紙感謝 佐藤勇夫 2025年10月22日 (水) 16時21分
■ 岩手山の写真、感謝です 佐藤勇夫 2025年10月01日 (水) 15時42分
■ 「絵手紙・長月」(きぬ子さん) アップロード 管理人 2025年10月01日 (水) 15時33分
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■ Edge が起動しなくなりました 管理人 2025年09月28日 (日) 17時17分
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■ 「絵手紙・葉月」(きぬ子さん) アップロード 管理人 2025年08月25日 (月) 14時27分
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■ 絵手紙感謝です 佐藤勇夫 2025年08月08日 (金) 10時40分
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■ 約5ヵ月ぶりの登場 管理人 2025年08月01日 (金) 23時13分
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白堊36会掲示板への最新投稿


在京疾風会掲示板への最新投稿


 お久しぶりです
  投稿日 10月15日(水)23時31分 投稿者 豊間根則道
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ご無沙汰しました。つい忘れてしまいますね。東京も一気に秋の陽気になり、涼しすぎるほどになってきましたが、皆さん、お変わりありませんか。私は元気で、淡々と暮らしております。一時、手の指が朝起きた時にこわばる感じがして、リウマチではないかと疑い医者に診てもらいました。検査の結果、リウマチの兆候はないということで放ってあります。そうこうしているうちにこわばりは気にならないほどに弱まりました。なんだったのでしょうか。昔から人間ドックの結果にリウマチの症状に注意するようにと言われていましたので、その心配が先に立って症状が出たのかなとも思います。病は気からということですね。とはいえ、これからも注意は怠らないようにしようと思いますが。

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 秋が来た
  投稿日 9月24日(水)21時45分 投稿者 豊間根則道
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東京も一気に気温が下がり、朝晩は秋の陽気に(少し)なりました。あんなにやかましかった蝉の声もぱたっと聞こえなくなり、気がつけば虫の声がじわっと地に満ちています。皆さま、お元気ですか。私はこのところ朝の寝覚めが悪く、眠気を抱えたまま起き出すことが続いています。春眠暁を覚えずならぬ、秋眠暁を覚えずの境地です。朝の気温が下がって、それまで抑えていた夏バテがどっとばかりに吹き出してきたのかと思っています。

日も短くなりました。夕方6時というともう薄暗くなっています。日課の散歩の時間を夕方から昼過ぎに移しました。夏パターンから冬パターンへ、衣替えならぬ生活パターン替えです。季節は回るということを改めて実感しています。

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 久しぶりに投稿します
  投稿日 9月13日(土)15時17分 投稿者 豊間根則道
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8月のいつからだったか、このホームページにアクセスできなくなり、ご無沙汰しておりました。お久しぶりです。

泰久さんの熱血連載が始まっていたとは知らずにおりました。よく調べて書いていらっしゃる。大変なご努力とお見受けします。私自身は野球にさほど関心はないので、拝読して昔の雰囲気を味わうくらいが関の山ですが、好きな方にはたまらないのではないでしょうか。泰久さん、ぜひ続けてください。

今日は東京でも暑さが一段落し、秋の気配を感じさせていますが、予報によるとこれは一時のこと、まだまだ暑い日が続くのだそうで、いい加減にしてくれよと言いたくなります。これだけ暑い夏になると、年寄りにはそれを生き抜くだけでも大仕事といっていいことになり、秋の気配を感じながら「今年も生き抜いたか・・・」と感慨に耽ることも冗談ではないような具合になってきました。この先どうなっていくのでしょうか。

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 連載 :「S31・S32 白堊熱球物語」
  投稿日 8月23日(土)16時47分 投稿者 佐藤(泰)
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(4)盛岡一高S31チームの発進、好敵手・盛岡商業

盛岡一高野球部を語るには、好敵手・盛岡商業高校(以下盛岡商業と呼ぶ)野球部を語らなければならない。
「盛岡一高vs盛岡商業」は「杜の都の早慶戦」と呼ばれ、幾多の熱戦を繰り広げてきた、昔も今も、「好敵手」
というよりは「宿敵」と呼んだ方がよい存在だ。7月〜8月の「夏の甲子園」が終わると3年生部員は引退し、
あいだをおかず、2年生部員と1年生部員とで新チームが編成される。そして「秋季大会(新人戦)」が始まり、
翌年の「春季大会」、そして「夏の甲子園大会」を戦うことになる。

したがってS31年の夏を戦うチームは、S30年の「秋季大会」が最初の公式試合となる。クジ運とはおそろしい
もので、秋、春、夏とすべて、盛岡一高はこの好敵手・宿敵・盛岡商業と緒戦でぶつかることになる。「S30・
秋季大会」は盛岡一高3-11盛岡商業で大敗、「S31・春季大会」は盛岡一高0-1盛岡商業で惜敗、そして、
「夏の甲子園・岩手県大会」の盛岡一高vs盛岡商業は昭和31年7月22日に行われた。盛岡市を二分する戦い
であり、一高ファン、盛商ファン、がつめかけ「盛岡市営球場」は2万3千人の大観衆で埋まった。下馬評は秋
・春に勝っている盛岡商業やや有利であった。

昭和31年「夏の甲子園」岩手県大会は39校で戦われた(添付トーナメント画像参照)。まず「実力打診」として、
盛岡一高を「岩手日報7月14日号朝刊」は次のように評している。『切れ目のない打線、"打撃の盛中"として
伝統を誇るこのナインはその名に恥じず打力のチームとしてグンと実力を増した。』『ムラのない打線はほとん
ど毎試合十本以上の安打を放ちA級の先端を行く存在。』『エース女鹿は体には恵まれないが、左腕からくり
出す速球とシュートは最近とみに威力を加え、落ちついたピッチングはその制球力とともにかなりのもの。』
『緒戦で盛岡商高と対戦することになったが、復調した岩崎(一)投手をどのように攻略するか、、、。この名門
が甲子園にカム・バックする一つの試練として興味ある一戦であろう』

そして直前予想として「岩手日報7月20日号朝刊」でトーナメントのブロック別の予想をしている。盛岡一高は
Aブロックに入った。『Aブロック 地元盛岡勢のAクラス盛岡一、盛岡商、盛岡工の三チームと古豪遠野高が
顔を並べたAブロックが最激戦のグループとなった。』『しかししいて予想をすれば、盛岡一-盛岡商は紙一重
の差ながら技能的に盛商がすぐれ、地道に攻めたてれば、盛商に歩がある。』『結局サウスポーにあまりなれ
ていない盛商打線が女鹿をいかに打崩すか、こうしたところに勝敗のカギがかけられている。いずれにせよ
この勝者が優勝街道をばく進することは間違いない。』

すなわち緒戦である盛岡一高vs盛岡商業の一戦は、「事実上の優勝決定戦」と評され、そして勝敗のカギは
盛岡一高・ピッチャー女鹿の左腕にあると評されたのだった。(つづく)

参考資料・引用資料 (引用部は『』で示した) :
1)「白堊熱球譜・盛岡一高野球部創設百周年記念誌」(盛岡一高野球部創設百周年記念誌編集委員会編、
 平成11年(1999年)発行)
2)「岩手日報」昭和31年(1956年)7月14日、20日、23日、各号朝刊

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 連載 :「S31・S32 白堊熱球物語」
  投稿日 8月15日(金)16時27分 投稿者 佐藤(泰)
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(3)「S31・S32 白堊熱球物語」・前史

いま、真っ最中の「全国高等学校野球選手権大会」(以下「夏の甲子園」と呼ぶ)は、第107回を数える。
前身は「全国中等学校優勝野球大会」で、第1回大会は大正4年(1915年)に大阪の「豊中球場」で開催
されている。大正6年(1917年)の第3回大会から球場は、兵庫県の「鳴尾球場」になり(現・西宮市)、大正
12年(1923年)の第9回大会まで開催された。今の「甲子園球場」(兵庫県西宮市)に移るのは大正13年
(1924年)の第10回大会からである。

この大正4年(1915年)に初めての全国大会が開催される以前は、各中学校(旧制)がクラブを結成して
対抗戦を行っていた。わが白堊校=盛岡中学も明治32年(1889年)に野球部を結成し、おとなりの宮城県
の仙台一中(現・仙台一高)との対抗試合をかわきりに、県内の一関中学(現・一関一高)や遠野中学
(現・遠野高校)、あるいは秋田県の大館中学(現・大館鳳鳴高校)、宮城県の仙台二中(現・仙台二高)、
あるいは年長である早稲田大学第二軍や旧制第二高等学校とも対戦している。明治44年(1911年)には
「第一回東北六県中学連合野球大会」が行われ「野球熱」が高まっていった。

盛岡中学野球部は抜群の強さを誇り、20勝3敗1無効試合で、東海の愛知一中(現・旭丘高)と関東の
水戸中(現・水戸一高)とともに「全国中学球界の三傑」と呼ばれたという。さらに歴史をさかのぼると、
いったい「野球」=「ベースボール」がいつから始まったのか、これは資料が少なく、推測の域を出ないよう
だ。が、盛岡中学の「日誌」に、明治19年(1864年)の運動会の競技の中に「ベースボール」の文字があり、
岩手県の野球の始まりと見てよいと言われている。

盛岡中学の全国大会への出場は、

・大正6年(1917年)第3回大会に初の出場、ベスト4。
・大正8年(1919年)第5会大会に2度目の出場、ベスト4。
・大正10年(1921年)第7回大会に3度目の出場、ベスト8。
・大正15年(1926年)第12回大会に4度目の出場、初めて甲子園の土を踏む。
・昭和8年(1933年)第19回大会に5度目の出場。

戦後の新制高校として短い期間、盛岡高と称していた時期があり、

・昭和24年(1949年)第31回大会に盛岡高として6度目の出場。
・昭和25年(1950年)第32回大会に盛岡高として7度目の出場。

したがって、盛岡一高のS31(昭和31年)のチームは6年ぶり8度目の「夏の甲子園」を目指していたことに
なる。(つづく)

参考資料 :
1)「白堊熱球譜・盛岡一高野球部創設百周年記念誌」(盛岡一高野球部創設百周年記念誌編集
 委員会編、平成11年(1999年)発行)
2)「盛岡一高野球百年」(弓村胡鰐著、平成3年(1991年)発行)

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