日本経済新聞4月29日文化面 「啄木、100年目の帰郷」

 新井満 (作家、作詞作曲家。1946年新潟市生まれ。上智大学法学部卒。著書に『尋ね人の時間』(芥川賞受賞)など。CD『千の風になって』もロングセラーに。
 
 「これまで公言してこなかったことを今日は思いきって告白すると、実は私、石川啄木の大ファンなのである。
啄木がのこした二冊の短歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』を少年時代の私は何十回、いや何百回読み返しただろう。
啄木短歌のどこが好きかといえば、まずは分かりやすいことだ。
映像的といっても良い。ドラマ的といっても良い。映画のワンシーンでもみるように楽しむことができる。


 明治39年3月、二十歳の啄木は故郷渋民村(現在は合併によって盛岡市玉山区渋民)に戻ってきた。
そうして母校渋民尋常高等小学校の代用教員になるのだ。尋常科の2年生を受け持った啄木は教育熱心な熱血先生であったらしい。
ところが翌年校長排斥のため児童達を扇動してストライキをさせた罪で免職され、村にいられなくなってしまう。
  石をもて追はるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし
 明治40年5月、21歳の啄木は妹の光子を連れて渋民村を出た。
そうして北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路と道内を約一年間漂泊した後、海路上京し、
新聞社の校正係をしながら文学に命をかけるのだが、肺結核に倒れてしまう。
次の短歌は啄木最晩年のいつわらざる心境であろう。
  今日もまた胸に痛みあり。
   死ぬならば
  ふるさとに行きて死なむと思ふ。
 しかし帰郷の夢はついにかなわず、わずか26年と2ヶ月の生涯を終えるのである。
<啄木の夢をなんとかしてかなえてあげたい。せめて啄木の魂を音楽の翼にのせて、故郷の山河に帰してあげたい…>
ある日、私はそんなことを考えた。生前の啄木は約四千首の短歌をのこしたが、
その中から望郷をうたった短歌を選び出し、メロディーを付けて歌唱することにした。
半年ほどかけて私が選択した短歌とは、例えば、
  ふるさとの山に向ひて
  言ふことなし
  ふるさとの山はありがたきかな
 さらに、こんなのもある。
  かにかくに渋民村は恋しかり
  おもひでの山
  おもひでの川 
 (中略)
 しかし、啄木の短歌が楽曲になったからといって、啄木の魂がただちに帰郷できるかといえば、
そうとは限らないであろう。
なぜなら啄木と故郷の間には”石をもて追い出した、追い出されたという抜き差しのならない確執の溝が横たわっているからだ。
 <啄木の魂を気持ち良く帰郷させるにはいったいどうしたらよいのだろう…>
 盛岡市の中心部から車で30分ほど走ると、渋民地区の石川啄木記念館に到着する。
その隣りには渋民尋常小学校の旧校舎が移築復元されている。
いかにも古ぼけた木造二階建てだがこれこそ、若き日の啄木先生が教鞭をとったゆかりの場所なのだ。
建物を眺めているうちにひらめくものがあった。
 <そうだ、この旧校舎を活用したらよいのだ!> 
 本年4月2日朝、旧校舎の玄関前に集まってくれたのは、現在の渋民小学校に通う5年生40名である。
その傍らに鎮座するのは昔、啄木自身が毎日のように演奏したオルガンである。啄木記念館の展示品を
借り出してきたのだ。
マイクや録音機材がセットされた。レコード会社のディレクターが録音開始の合図をすると、土橋理佳先生のオルガン演奏が始まった。
やがて児童達の歌声が流れ始め渋民の山河に木霊した。
石川啄木作詞、新井満作曲『ふるさとの山に向ひて』である。
  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ  
  泣けとごとくに
 けなげに歌う児童達の姿を眺めているうちに胸の底から熱いものが込み上げてきた。
その瞬間である。私はふと、背中のあたりに啄木の気配を感じたのである。
  <あ、今、啄木が来ている。そして後輩達の歌声にじっと耳をすまして聴いている…>
 録音終了後、ある児童はびっくりしたような表情でこんな感想をもらした。
『歌っていると、千の風になった啄木の霊が吹いてきて、少し緊張しました…
 啄木が故郷を離れた明治40年とは、1907年だから、ちょうど100年前のことになる。どうやら啄木は、百年目にしてようやく帰郷できたのかもしれない。」

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