手紙

【酒を飲みたくなかった日】
5月も最後の日、夜も遅くなりそろそろ床に就こうとした時には11時も大分過ぎていた。
いつもなら会社で一杯飲みながら仲間と色々な話をしてから帰宅するのだが、今日はあまり飲みたい気分ではなかった。
自宅近くの暖簾を見るといつもならフラフラと立ち寄るところだが、なんとなく飲みたいという誘惑に惑わされる事も無かった。
休肝日も何日ぶりかなと指折り数えたが、この数年入院中を除くと数える程しかなかった事が改めて思い出された。


12時を過ぎただろうか、ウトウトとしているところ突然電話が鳴った。
留守番電話にしておいたから、即電話が留守電に切り替わった。
と言うのは最近迷惑電話が多いので、10時以降は留守電にしていた。
こちらも寝ぼけていたので、直ぐには電話に出られなかった。
出ようとした時には電話が切れていた。
間もなく今度は携帯電話がなった。
何だろうと思って携帯電話の着信番号を見た。
【我々は愛の果実】
母の日は誰でも知っている。
自分を生んでくれた母親という存在は、環境の違いを乗り越え、老若男女にとって唯一共有出来る大事な存在であろう。
悲しくなると、寂しくなると、はたまた死に際で思い出すのは自分が幼い頃の優しい母親だと思う。
それだけ母親の存在は偉大なものである。
しかし、母親だけでは俺達はこの世に存在しない。
つまり、父親もいなければ俺達はこの世に存在しないのである。
畑と種とが仲良く出来て果実は誕生するのである。
【手紙】
深夜に荷物を整理していた時に懐かしい封筒が目に止まった。
昭和43年5月21日付けの職安の勤務地久慈から名須川の息子へ宛てた父親からの手紙であった。
子供の頃の父親は怖い存在と優しい存在との両面を持ちそろえていた。否、厳しさも持ちそろえていた。
其の手紙を見て38年前の事が思い出された。
それは俺が中学校時代の修学旅行の事であった。
盛岡を出発して一日目か二日目であっただろう。
悪ガキ共の集まりである、下小路中学校の修学旅行は昭和新山に向っている道中であった。
バスの運転手が地震の揺れを感じながらも、子供等に不安を与えないようにまた事故が起きないように最大の注意を持って運転をしていた。
車内では元気な子供等が楽しげに喋りあっている。
ある者はおやつを口にしたり、カメラで仲間を写真に撮ったり、また其れに託け好きな異性の写真を撮ったりと大騒ぎであった。
盛岡から青森迄の電車の中ではやっとの想いで好きな女子の写真を必死になって撮影したが、相手も其の意思を理解してくれて、ニコッと笑顔で答え、雅にドキドキものであったと其の時の感想を述べているものも居た。
バスが昭和新山に着いたが、先ほど地震が有り昭和新山に近寄る事は大変危険ということで一切が禁止された。地震があった事が伝えられたが、女子はともかく男子は全くの無関心だ。
夕方お風呂の時間になり皆で風呂で遊んでいたが、男子の事だ風呂の中で暴れ周り水面が其の動きに合わせて揺れに揺れていたのは当然である。
夢中で遊んでいたので其の揺れが大きくなった事にあまり違和感が無かった。
揺れが一際大きくなった時、男子はまたはしゃぎ回りとことん楽しんだが、其の時館内放送があった。
「ただいま、地震が有りました。皆さん落ち着いて行動してください。お風呂に入っている方は直ちにお部屋にお戻り下さい。」という内容だったと思う。
しかし、相変わらず男子は一切お構い無しである。
後から聞いた話では、一部の女子は「おかあさ~ん。」と涙ぐんだとか、、、。
其の女性は白亜の同期であったが、高校に入ってからは今まで口を利いた事が無い。
さて、旅行も終わり盛岡に帰る時間になって、初めて東北本線のレールが地震の影響でレールが曲がり、電車の運転が不可能な事を知る。
確かに青森で東北本線のレールが曲がった情景が今でも目に浮かぶ。
旅行会社が急遽電車からバスに帰りの手配をした。
俺達は全てがサスペンスで楽しい思い出となったが、引率の教師やら旅行会社の担当者そして何より、我々の両親は生きた心地がしなかったようだ。
夕方には帰ってくる予定が大幅に変更になり、夜の11時過ぎに中学校の校庭にバスが着いたのである。
生徒の両親は深夜に子供のために中学校に集合して待ち受けていたのである。
それでも男子は面白い体験が出来たと興奮気味であった。
其の地震は昭和43年5月16日午前9時48分に規模M7.9という大規模なものであった。震度5は北海道も盛岡も同じであったらしい。
【父からの手紙(原文のまま)】
待望の北海道修学旅行如何でした。
出発当時は雨降り、16日は十勝沖地震で大変だったでしょう、思い出として残る事でしょうが。
父さんも出発の日から帰るまで天候がどうだらうと心配をしていた。
16日の地震でこれまた大変心配した。
引率の先生がどれだけ苦労されたか、本当にご苦労様でしたとお礼を申さなければならないことです。
久慈地方もひどかったが被害が少なくて幸いであった。
ところで5月21日の日報に第17回中学学力テストが6月30日(日)にあることが登載されていた。
申込は5月31日まで参加料150年円。
これは昌志の実力を更につけるによい機会ですから必ず受ける事です。
そのためには今から準備をしておきなさい。
不順な天候だからカゼを引かないように25日に帰ります。おかあさんに手伝いをしなさいよ
                                   5月21日
                                   父より
          昌志君
【宝物】
優しい父親であったが、父親独特の愛情表現である子供の将来の為の厳しさも持ちそろえていた。
そんな父親からの手紙で有った。
一生の宝である。
7thD  by Mammbo-No5

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

手紙 への6件のフィードバック

  1. oirio のコメント:

    Mammbo-No5さん
    心よりお悔やみ申し上げます。お父さんに合掌。

  2. oirio のコメント:

    合掌

  3. yoko のコメント:

    心よりお悔やみを申し上げます。
    親がいたからこそ今の自分があるのは、当然のことなのですが、今自分の生き方を考える時、良きにつけ悪しきにつけいつも親の生きた人生を思い出し指針にしています。
    心の中にいる親と会話しているそんな自分が最近多いような気がします。

  4. suimei のコメント:

    十日ほど前に盛岡に帰ってあげられて、本当に良かったですね。
    どれほど、心待ちにされていたことでしょうか。
    やはり親子は以心伝心、心が通いあっているものなのですね。
    父親の愛は山の頂のごとく、そして子供を導く羅針盤のごとく…。
    父親としての厳しさの中に、深い深い愛情に満ち溢れたお父様の手紙、心にしみました。
    合掌。

  5. Mannbo-No5 のコメント:

    皆さん御悔みどうも有難うございます。
    父親が亡くなる10日ほど前に会うことが出来て大変良かったと思っています。
    なぜなら父親の声は確認出来なかったが、心だけは通じたと確信しているからです。
    今でも父親の手のぬくもりは心の中に残っており、父親と母親の愛情を糧にして、これからの人生を過ごしたいと思います。
    これからも宜しくお願い致します。
    Mannbo-No5

  6. fujikun のコメント:

    心よりお悔やみを申し上げます。
    10日ほど前に、お父様の思い出・釜石の話題をお伝えできたことは、きっと記憶を呼び覚ますことに役立ち、走馬灯のような振り返りにつながったのではないでしょうか?
    父親の思い出で今後も人生を豊かにできるとのこと、
    悲しい中にも光が感じられる良い光景が浮かびます。
    不謹慎かも知れませんが、呑みながら一緒に思い出に参加させてもらう機会が待ち遠しいですね。
    合掌。

fujikun へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です